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luna y perroluna y perro
日々のぼやき
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○小話(ネウヤコ)
 
 例えば、とネウロが言った。例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
 例えば、我輩が居なくなったら。
 
 例えば。
 
 あの時の返答をどうかえしておけば良かったのか、弥子は未だに分からないままだった。普通に生活していても時おりぼんやりとあの時のことを思い出してしまう。窓辺に佇んでいたネウロの横顔や、日差しがあたったネウロの白い肌やこちらに伸ばされた長く優雅に曲がるゆびさき。
 考え事をしているあいだに信号が変わったらしい。周囲の人がいっせいに動きはじめて、弥子はその波にもまれるように交差点を渡った。繁華街は色々な音や匂いに溢れている。となりにいた男性の肩にぶつかって、ねっとりとした汗の感触に知らずに弥子は眉を寄せた。
 
 ネウロは汗をかかなかった。
 
 魔人の性質なのだろう、ネウロの肌は冷たく湿った感触があったがそれは決して汗ではなかった。陶器のようなものだと思う。或るいはゆびさきで擦る水面の感触。
 
 繁華街をぬけて路地裏に入った。狭いアスファルトの道路は両脇から迫るように家が建てられ、キヅタの絡まった電柱が道路を余計に狭くみせている。密集したアロエの翠が鮮やかに網膜にやきついて、またはノウゼンカヅラの緩やかな橙色が熱気のこもった風にゆれている。
 蒸せる花の匂いを感じながら行きつけの定食屋の暖簾を潜った。とびらの脇に植えられたコルジリネが濃い緑色の葉を伸ばしている。手を差し伸べると硬い先端が皮膚に刺さった。他の葉をみると、先端をくるりと曲げて葉の根元につきさしていた。女将がやったのだろうか。どこか窮屈な気がして、しゃがみこんで葉のひとつを根元から抜いた。それでも葉はくるりと曲がったままだった。
 もう癖が付いているのだ。
 苦しくても、それが当然になってしまえば戻ることに恐怖を覚える。
 そんなことを考えながらとびらを開いた。一瞬だけ、コルジリネをちらりと見た。
 
 食堂にはあまり客がいなかった。暇そうに煙草をふかしていた女将さんが弥子に気付いて立ち上がり、いつものでしょうと尋ねてくる。頷いて、いちばん奥の席に坐った。隣の家の庭から漏れたヤツデの葉が曇り硝子にべったりと緑の陰を落としている。
「はい、お待たせ。いつもの」
 と、大盛りのどんぶりを目の前に置かれた。割り箸をわっていると女将がどうせツケなんでしょうと尋ねてきたので月末にまとめて払うからと答えておいた。そうなの、なら大丈夫よね。ツケを回収したことなどないくせに女将は頷いた。たまに弥子が払おうとしてもどういった理由でか断られる。
 やる気がないのか。
 ふと、逃げ出した旦那を待つためだけに店を開いているのだと、そんな噂を思い出したがすぐに忘れた。どんぶりは美味かった。量も多かったので満足した。
 食べ終わってからも弥子はしばらく席に座ったままだった。頬杖を付いて窓ガラスの濃い緑を眺める。そういえば、あの時もこんな季節だった。事務所の隣に植えられた若い楠木の薄みどり色が窓に淡黄色の模様をえがいていた。
 
 例えば、とあの魔人は言ったのだ。
 
 例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
 例えば、我輩が居なくなったら。
 
 例えば、と。
 
 その時のネウロの表情を弥子はおぼえていなかった。思い出そうとするとぐちゃぐちゃに歪んで千切れてどこかに飛んでいってしまう。嗤っていたのかも知れないし、蔑んでいたのかもしれない。もしかすると…そう、もしかすると欠片ほどは寂しさを見せてくれていたのかもしれなかった。または計り知れない感情を抱えて表情を歪めていたのかも。
 
 ヤコ、と呼ぶ声をおぼえている。食事をとる弥子を眺める呆れた視線や、弥子をいじめるときの得意げな笑顔や、謎を見つけた時のかがやいた表情や、ふとした時に見せる途方にくれた眼差しや。
 普段見ていたネウロはいくらでも思い出せるのに、どうしてだろう、最後のネウロの表情だけが思い出せないのだ。弥子は曇りガラスの淡黄色を見つめながらネウロのことを考えた。目蓋が熱くて、苦しくて、唾液を飲み込むとそれはひどく塩辛かった。
「弥子ちゃん、どうしたの? 悲しいの?」
 女将のあわてた声が聞こえて、それでようやく弥子は自分が泣いていることに気が付いた。涙がとまらない。店に入る前に見たコルジリネを思い出した。元にはもどらない葉が、まるで自分のようだと思った。
 
 苦しくても、それが当然になればもう戻れないのだ。
 
 ネウロが戻ってこないのは自分がネウロの喪失を当然と受け止めてしまったからか。弥子は思い、必死にくびを左右に振った。そんなことがある筈はない。自分はネウロの喪失をこれほどまでに受け入れていないのに。だからきっと、ネウロは戻ってくるはずなのに。
 弥子はテーブルに突っ伏して泣き喚いた。ネウロが戻ってくるのなら、他の何もいらないと祈るように思った。
 
 例えば、とネウロは言った。例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
 例えば、我輩が居なくなったら。
 
 ネウロが居なくなったら、と弥子は答えた。例えば、そう例えばだけどネウロ、ネウロが居なくなったらわたしはきっと、そう、きっとね。
 
 ものすごく悲しいと思うんだ。
 
 この世界を喪うくらい、きっと、悲しい。
 
 
終わり。
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○日記連載 『桜に哭く鬼』
 
 
  序章
 
 夜咲(やさか)村は周囲を山林にかこまれた小さな農村だった。山の傾斜を利用した段々畑が広がり、その下に村の中心部がある。村を出入りする道はかろうじて舗装がなされた国道が一本だけで、それは山間を縫うように細々と延びていた。
 国道は村を二分するように走っていて、村はその道を境に大きく東部と西部に分かれていた。東部は商店や郵便局、村役場がある村の中心を担う場処で、これを「境」といい田畑が広がる西部を「野部」と呼んだ。
 その他に山中の数件の家々があるだけの「野落」という部落もあるが、こちらは老人が数人肩を寄せ合って暮らしている部落なので住人はあまりその存在を意識しない。あと数年のうちに野落はなくなるだろうと、口には出さないが誰もが予測していた。
 やけに蒸し暑い夜だった。虫の鳴く声がまるで雨音のように村中に響きわたっていた。湿気を含んだ風がねっとりと肌に絡みつき、離れない。そんな重苦しい空気がはびこっていた夜の村を、ひとつの集団がひっそりと横断していた。
 それらは異形の集団だった。二十人ほどの白装束の者たちがにじるような歩き方で舞を踊りながらゆっくりと進む。揃いの白い面をつけているので、彼らは宵闇から不気味なほどに浮かび上がって見えていた。
 列の中心には巨大な桶を担いだ四人の白装束が居た。桶は人ひとりが屈んで入れるほどの大きさで、担ぐための御輿には鈴が付けられている。
 しゃらん。
 白装束の列が進むたびに、鈴がひっそりと音をたてた。熱気が音をひびかせるのを拒むのか、軽やかとはいえない、何処か薄暗さを感じる音色だ。誰も声を発しない。鈴の音だけを響かせた無言の集団はひっそりと道を進んでいく。
 「境」の最奥にある社を出た集団は、村を横断して「野部」の最奥にあるお社へと向かっていた。畦道や路地裏を通りぬけてやがて現われた国道を渡り、野部の中へと入っていく。時おり現われる民家のうちの数件の民家の前で彼らは立ち止まった。それらの民家の前には樹枝を立てかけて作られた異様な置物がおかれていて、白い紙がそのうえに載せられている。
 墨で名前が書かれたその紙を、集団の先頭にいた白装束がうやうやしく取り、持っていた錫杖の先端に突き刺した。黒塗りの錫杖には既に数枚の紙が刺さっている。「境」でも彼らはこうして何軒かの民家から紙を持ち去っていた。やはり言葉はなく、先頭のものが錫杖を鳴らすとそれが合図となって列は進み始めた。
 やがて、集団は「野部」のお社へとたどり着いた。粗末な小屋にも似た社だが、前には広場がひろがり野部の住人の集会場の役割を果たしていた。その広場で、神主が彼らの帰りを待っていた。集団は広場の中心まで進むと、担いでいた桶を地面にゆっくりと下ろした。
 神主が頭を下げる。
「ごくろうさまでございました」
 明朗とした声が広場に響きわたった。瞬間、異能の集団たちからほっと安堵の息がもれた。先頭を歩いていた白装束は錫杖を神主に手渡すと、背後を振り返った。白い面を顔から外す。皺だらけの日焼けした顔がにんまりと笑った。
「みんな、お疲れだったない」
 その声が合図となり、白装束たちが一斉に付けていた面を外した。殆どが壮年の男性である。各々その場にしゃがみこんだり、互いに労をねぎらったりする。中には熱気に負けたのか装束を脱ぎ始める男も居た。
 
――ようやく終わった。
 山中和夫(やまなかかずお)は、集団の中心で安堵の笑みをうかべていた。面を付けていた顔は火照り、桶を担ぐためにずっと中腰でいた身体がぎしぎしと痛んでいる。装束は汗でべっとりと濡れていた。袖で額をぬぐうと白い布地が灰色に染まった。
「お疲れさん」
 背後からこえをかけられて振り向いた。山中と同じく桶を担いでいた村里がやはり火照った顔でにんまりと笑っていた。村里は村で一軒のスーパー「むらさとマーケット」の店主である。大学卒業後村にもどり、役場に就職した山中にとっては数少ない同級生のひとりだった。
「しかし毎年のこととはいえ、年々きつくなるな。明日は俺も筋肉痛だよ。棚出しが今から怖い」
「俺たちの年でそんなこと言ってたら、臼井翁はどうなるんだよ」
 山中はちらりとお社のほうへと視線を送った。社の前では神主と、先頭を歩いていたおとこが何か話し込んでいる。かくしゃくとした仕草が特徴的な彼が件の臼井翁だった。年はとうに米寿を越えたというのに、まだ踊り手として祭りの中心を担っている。
「あれは特別さ。何たって化物だからな」
 ふたりがまだ高校生だったころ、村里は山に入って遭難しかけたことがある。そのとき助けてくれたのが臼井翁らしいが、その命の恩人を彼は平然と「化物」と評していた。当時柔道部だった青年を、還暦をすぎていた老人が担いで山を下りてきたのだ。「ありゃ天狗だぜ。俺は天狗に攫われたんだって本気で思ってたよ」と、村里はことあるごとに吹聴している。
「天狗ってのは言いえて妙だと思うけどな。化物は酷いんじゃないか?」
 笑いながら、山中は重い足をひきずって桶へと近付いた。すでに数人の男たちが桶の蓋を開いているところだった。二人がかりで蓋を持ち上げて、地面に置く。山中が桶の中身をのぞきこむと、中で坐っていた臼井真奈美はおとこたち以上に汗だくになっていた。手近なおとこたちの手によって桶から引きずり出された真奈美は、化粧も汗でほとんど流れている状態だ。喘ぐように息をして、「もう巫女役はやりたくないです…」と呟く。
 周囲のおとこたちが弾けるように笑った。
 地面にしゃがみこんだ真奈美に、山中は話しかけた。
「お疲れのところ申し訳ないが、巫女はこれから神主さんの祝詞を受けなきゃならないんだよ。立てるかい?」
「……」
 ほとんど密閉状態の桶に押し込まれていた真奈美は見るからに体力を消耗していた。子供のように無言で頷いたが、なかなか立ち上がらない。山中が手を差し伸べると、それに縋ってようやく立ち上がった。巫女の着物をつけているのでどうにも動き辛そうだ。
「課長にどうしてもって言われたからやりましたけど、」
 と、真奈美が山中を睨んだ。真奈美は今年役場で採用された山中の部下である。なり手のない巫女の役をむりやり押し付けた山中としては、真奈美の怒りをひたすらに受けるしかない。
「こんなに辛いとは思いませんでしたよ。道理で巫女のなり手がいないはずだわ」
「確かに、変な祭りだな」
 山中は苦笑した。
 村にうけつがれているこの祭りは「しびと祭」と呼ばれていた。しびとというのは四人、つまり巫女の入った桶を担ぐ人数が四人であることから転じた祭名だと思われる。
 年に一回、「境」の社から「野部」の社へ、また「野部」の社から「境」の社へと巫女の入った桶をかついで行き来するだけの祭りだが、その合間に凶事のあった家々を回り、それぞれの家から霊名の書かれた札を持ち去るので結局村中を歩き回ることになる。その間ずっと桶に閉じ込められていることもあり、巫女をやりたがる娘は皆無に等しかった。きれいに着飾ってもらえる巫女役といえばいくらでもなり手が居そうなものだが、着飾った挙句に桶に押し込められるのは苦行に等しい。今では水分補給が許されているが、昔は脱水症状をおこす巫女もいたのだという。
 去年までの巫女は山中の上司でもある部長の末娘がおこなっていたのだが、部長も末娘を説得するのに苦労していたようだった。祭りが近付くと「今年はブランド物のバッグをせがまれたよ」とか「今年は旅行に連れて行けと言われたよ」と、溜め息混じりに呟いていた。その末娘も東京の大学に進学して、村はあらたな巫女を探さなければならなくなった。
 そんな辛い巫女役を押し付けられた真奈美はまだ怒り心頭といった様子だった。村の出身だが、巫女がどういったことをするのか詳しくは知らなかったらしい。祭事の内容についてはあまり知られていないのだ。しびと祭りの最中、村人たちは外に出るのを禁じられている。家族が装束にでもならないかぎり、祭事について詳しく知ることはない。
「課長、明日わたしは欠勤しますからね。誰が何と言おうと、絶対明日はクーラーがんがん利かせた部屋で一日中寝てますから」
「分かった、部長には言っておくから」
 そのくらいの我が侭なら許されるだろう。苦笑して頷いた。きっぱりとサボタージュを宣言されたのが可笑しかった。真奈美ははっきり物をいう女性で、その裏表のない物言いがひどく好ましかった。
「梧行(ごぎょう)さんから差し入れでーす!」
 不意に大声が聞こえて、振り向くと広場の入り口で白装束のひとりが酒のケースを運んでいるところだった。ありがたい、と方々から声があがり、数人のおとこたちが広場の入り口へと向かう。
「梧行さんって、あのお屋敷のおうちですよね?」
 真奈美が山の一方をゆびさして尋ねてきた。つられて山中もそちらを見上げる。梧行の屋敷は山の中腹にひっそりと佇んでいた。屋敷というほど立派ではないが、明らかに周囲の農家とは違う佇まいをしているので村のものはそこを「梧行の屋敷」と呼んでいる。
「梧行さんってとうに亡くなったんじゃありませんか? 母からそんな話を聞いた気がするんですが」
「うん、先代の当主は亡くなってるんだけどね」
 と、ゆっくり歩く真奈美に歩調を合わせながら山中は説明した。
 梧行家はこの村の名士である。地主だったらしく、戦前はこの村のほとんどの田を梧行家が所有していたのだという。また村外においても名士だったらしく、さまざまな恩恵を村に与えてくれたのだ。用水路の整備や、村を走る国道も梧行家のおかげ、そのうえ梧行家は村に診療所まで作っていたのだ。そういった経緯があり、小作農制度がなくなった今でも村人たちは梧行家を敬っている。
 その梧行家の先代は、五十代半ばで亡くなっていた。変わり者で嫁をむかえなかったことから梧行家は途絶えるのだろうと思われていたが、その数年後に先代の兄が孫を連れて村にもどってきていた。東京で芸術家として名を馳せていたらしい彼を、村人は最初遠巻きにしていたが、彼は梧行家の役目を先代以上に果たしていた。今では彼はまごうことなき「梧行家の当主」と周囲に認められている。
「お孫さんが居る年なんだ、」
「もう七十くらいになるんじゃないのかな? 真奈美ちゃんは知らなかったのかい?」
「わたしは去年まで神奈川の大学に行ってましたから」
「ああそうだったね。うん、お孫さんはうちの娘と同い年なんだよ。身体が弱いらしくてあまり学校には行ってないようだけどね、とてもかっこういい子だと、娘は言ってるんだ」
「えー、もしかして娘さん、その子のことが好きなんじゃないですか?」
 いかにも年頃の女性らしい物言いに、山中はぷっと吹き出した。
「うーん、それは如何だろうね。娘はまだ小さいからなあ」
「今の若い子をあなどっちゃいけませんよ、課長」
「何だい、その言い方は。真奈美ちゃんだってまだ若いだろう」
「わたしはもうおばさんですよ!」
 ばんばんと山中の背中を叩く。どうやらもう疲れは取れたらしい。山中は咳き込み、ふと視線を山に向けて――目を見開いた。
 山は黒いシルエットになって薄灰色の景色にそびえていた。その中腹から目が離せない。真奈美が「課長?」と訝しげに山中を呼び、視線を泳がせて――やはり愕然とした。
「……え?」
 信じられないものを見た、という表情だった。ふたりで唖然としたまま山を見上げる。そのふたりの様子に気付いたのだろう、周囲で談笑していたおとこたちが同じように山を眺めてことばを失う。驚愕はゆるゆると広場中に伝染して、装束姿のおとこたちが揃って見開いた眼を山へと向けていた。
 信じられないものが其処にはあった。
 山の中腹。野落と呼ばれるその地区には一本の桜の木があった。その桜が薄紅色の花をつけていた。闇の中でなお浮き上がる、白い桜の木。月明かりに照らされた桜はたとえようもなくうつくしかった。狂い桜、という単語を山中は思い出していた。
 あまりにうつくしい光景だが、そのうつくしさに見蕩れている者は皆無だった。
 
 夜に咲く桜。
 
 村の名前を彷彿とさせるそのフレーズは、広場にあつまっていた者たちにあるひとつの物語を思い起こさせていた。それは信心深い老人たちが語る迷信にも似た御伽噺だったが、村中の誰もが知っていた。
 村人は、幼いころからその話を聞かされる。何か悪いことをしたときや親に逆らったとき、決まってその話をされた。
 山中の脳裏にも、幼いころ祖母から聞いた話がよみがえっていた。
 
 あの桜には鬼がいるんだよ、和夫。
 
「鬼…」
 と、誰かが呟くこえがした。山中の背中に悪寒が走る。となりの真奈美が小さく震える気配がした。周囲にゆるゆると悪寒が広がるようだった。
 
 ――桜が咲けば、鬼が出る。
 
 夏の最中に咲いた山中の桜が、あるタウン誌にとりあげられたのはその数日後のことだった。噂は全国へと広まり、夏の終わりに桜が散るまで村は観光客であふれた。
 
 そして十年の月日が流れる。
 
 
続く。
 ネウロが傷をつけて帰ってきた。
 
 真夜中の事務所で、月明かりを背に窓から侵入してきた魔人は血塗れの姿をしていた。悠然とした表情にはべっとりと赤黒い血がこびりついていて、白目だけが浮きあがっている。翡翠色のひとみが無感情に弥子を見おろしていた。道端の石を眺めるような視線だ。
「どうしたの、それ」
 トリートメント中のあかねちゃんを手放して尋ねると、「ちょっとした手違いがあってな」とつぶやく。特に感情をもたせない口調が、逆に拗ねた子供のようだと弥子はおもった。
 多分サイとでもやりあったのだとあたりを付ける。今回関わった事件には、かの怪盗が絡んでいたのだ。人外の戦闘に巻き込まれるのは真っ平ごめんだと弥子はそうそうに退散したが、そのあと予測どおり凄惨な戦いが繰り広げられていたらしい。
 ただ、ネウロが痛めつけられるとは予想外だった。返り血かとも思ったが、どうやら全てネウロの血らしい。窓枠から降り立ったネウロの片足がざっくりと抉れて赤黒いなかに白い骨が見えていた。あまりの光景に弥子はくらっとして、そのうえ左手がもげているのを目にしてその場に倒れこみそうになった。
「サイにやられたの…?」
 眩暈をおぼえながらも尋ねると、「いいや、ちょっとした手違いだ」という答えが返ってきた。どんな手違いがあれば片手がもげるのか、是非おしえてほしいところだ。そのうえ何の手違いで足の肉をそっくり抉られたのだろう。
「ひと晩寝れば治るだろう。見た目ほどは酷くない」
「いや、どう見たって酷いから、それ」
 もう何からつっこんでいいものやら。頭をかかえる弥子の脇におりたった魔人は平然とした素振りで何かを弥子の前に投げ捨てた。月明かりに照らされたそれはもげた手首の先で、血がぬらぬらと光っている。床に血と肉があたる、べちょっという音が生々しく聞こえて、弥子はこみあげてきた吐き気を唾を呑んでやりすごした。
 魔人と付き合ってからはある程度のスプラッタにも慣れたつもりだったがこれはきつい。唇を両手で覆った弥子を面白そうに見おろして、魔人はいっそ爽やかなほどの微笑みをうかべた。
「おや、先生には少し刺激が強すぎましたか? 顔色がかなり悪いようですが」
 他人がいないのに外面が良くなるとき、魔人はきまって機嫌がわるい。ちらりと見るとこちらを覗きこむネウロの表情はやわらかな笑みをうかべていたが、瞳だけが笑っていない。硬質なかがやきを見せる虹彩を見てとって、どうやら本気で機嫌がわるいようだと悟った。不本意な怪我に苛立っているのだろうか。かといって諾々と八つ当たりをされるいわれは無いので、弥子は目をそらして瞳を伏せた。
 飲み込んだ唾液はひどく酸っぱい。血のにおいが咥内にべっとりと貼りつく気がした。
 ネウロがうごく気配がする。血の臭いが濃くなって、次の瞬間にはほほに生暖かいものが触れた。
 べっとりとした血と肉の感触。骨の固い感触までリアルに感じた。途切れた手首が弥子のほほをさする。皮膚に血が濃くからみついた。
「なぁ、ヤコ」
 魔人は歌うように呼びかけてきた。返事をしない弥子を咎めることもしない。ねっとりとしたネウロの肉の感触に眩暈がおこった。くちびるが小刻みに震える。
「貴様の手首も取ってやろうか」
 ネウロの言葉は子供みたいに、純真な響きをおびていた。いいことを思いついた、そう告げるネウロは先程までの機嫌のわるさなどとうに忘れ去ったようだった。いや、それは仮面で、本当はまだ不機嫌なままで弥子をつかって腹いせをしているだけかもしれない。どちらにしろ、頬をさする毒々しいまでの感触は変わらない。
 ネウロの血。肉。
 普段、ネウロから生というものを感じることは殆どない。人形のような顔立ちや無機質な雰囲気は、まるで作り物のようだった。けれど血を流すネウロからは確実に「生」を感じる。グロテスクなパラドックスだ。
 ネウロの血と肉。
 眩暈をおぼえた。ネウロの血のにおいが弥子の体内をゆっくりと侵す。ネウロの声が、どこか遠くで聞こえていた。
 
「貴様の手首を取れば、我輩とおそろいだ。ペアルックとかいうのだろう。面白そうだな」
「……」
 
 血と肉と、生きているネウロ。
 
 自分は、この魔人に身体を千切られるだろう。
 血の臭いに塗れた弥子は、その未来に思いを馳せた。それは自分でも驚くことに恐怖や苦しみなど殆ど感じないまるで甘美な想像だった。
 
 
終わり。
 
→原作のネウロを見ていると思うのですが、あの人がきれいなのは「謎」を喰っているときと血を流している時だな、とか。何が書きたかったのかというと「二人でもげた手首でペアルック」という部分です。最悪ですね…! どんな悪趣味なペアルックなんだ。そもそもペアルックという単語を何処で覚えてきたんだ、この魔人は。今の日本にそんな単語が現存していたのか。
 うららかな春の日差しが空気を生温かく包んでいた。風もないおだやかな日だが、あたたかな気候は窓のさっしをじりじりと焦がした。頬杖をついていた肘がわずかに熱くなる。ちっと内心舌打ちをして、二階の窓から見える家の前の道路を見下ろした。
 ちょうど、あの人が母親にあたまを下げているところだった。あらかたの荷物は先に遠野家へ送ってしまったので持っているのはボストンバッグがひとつだけだ。母親が何かを話しかけている。おっとりとした口調に、あの人が何度か頷いた。
「ありがとうございます、おばさん」
 またお辞儀をする。深々と、慇懃に。
 そう、あのひとは最初会ったときもお辞儀をしたのだ。
 そんなことを思い出した。
 
 初めて会ったときの印象はあまり良いものじゃなかっただろう。と、自分でもその時の記憶を思い出すと表情がゆがむ。いろいろあって機嫌が悪かったのだ。だから突然あらわれたあの人を歓迎する気にはなれなかったし、これから一緒に住むことになるのよと上機嫌に告げた母親のことばに思わずにがむしを百匹ぐらい噛み潰したような顔をしてしまった。
「ごめんね」
 あのひとは困ったように笑って言った。自分より遥かに年下の子供の機嫌など気にしなければいいのに、眼鏡の奥にあるひとみを曇らせてほほ笑んだ。今と比べればあの人は子供も同然だったけれど、その当時はまるで大人のようだと思った。物静かな雰囲気の所為だと思う。その雰囲気がふにゃりと崩れて形を失う。せつなげな雰囲気だった。
 泣きそうだ、と思うと、一気に胸がつかれた。
 泣かせてしまう…あのひとが泣く気配なんてこれっぽちもなかったのに都古は慌て、「別にいいのよ」とこしゃまっくれた口調で言った。周章しながら言ったので呂律がまわらず、そのうえ表情は見事に生意気なものになった。
 そのとき、あの人がどう思ったのかはよく分からない。生意気なガキだと思われたかもしれないし、莫迦にされていると内心憤慨していたのかもしれない。都古にはあの人の気持ちなど分からないから、その時あのひとが抱いた印象を悟ることは決してない。これまでも、そしてこれからも。
「良かった」
 あの人はにっこりと笑った。その笑顔に、一瞬都古はことばをなくした。玄関の曇りガラスから差し込んだ日差しが飾り気のない眼鏡を薄ら白く光らせる。その奥にあるあの人のひとみは、とりたててうつくしいものではなかったのに何故か都古のこころを掴んだ。ぎゅっと、心臓を、握るように。
 細まった目元の所為かもしれない。切れ長の目尻が静かに伏せられる様子は、にっこりと笑っているにもかかわらず何処か揺らめくような情景をかもしだしていた。
 
 印象的な、ひとみ。
 
 息を呑んだ都古に、あのひとは「どうしたの?」と首をかしげた。年相応な飾り気のない仕草に、都古ははっと我に返って「何でもない」と硬い口調で視線を逸らした。
 
 我ながら、可愛げのない出会い方だったと今さらながらに思い出した。過去に戻れるものならあの日にもどってもう少しかわいらしい挨拶をしておきたかった。そうすればもっと、あの人に近づけた筈なのに――都古は組んだうでにかおを押し付けた。
 最初の出会い方があまり良いものではなかったので、結局あのひととの距離は縮まらないままだった。ぎくしゃくした会話や互いの立ち位置をはかるやりとりを繰り返しただけで、だから都古は、あのひとに対して抱いている感情が何なのかを今ひとつ掴みかねていた。
 不自然な共同生活――それでも、時たまあのひとと視線が合うたびに都古のこころは苦しくなった。初対面の、泣きそうな笑顔がこころの何処かに残っていたのかもしれない。あのひとの眸は人を直視しないくせに何かを見抜いているようなところがあって、その眼鏡に隠された虹彩で見つめられるたびに都古は小さな子供のように泣き喚きたくなってしまった。
 この気持ちが何なのか、まだ都古は知らない。
 知りたくもなかったし、折り合いをつけられるほどはっきりしたものでもなかった。薄らぼんやりとしていて掴み所がない。ただぐっと苦しくなる自分のこころを抱えて、あのひとのひとみを遣り過ごしていた。
 
「知らない……」
 頬杖をついたまま、呟いた。眼下ではあの人がきびすを返すところだった。ふと上を見上げる。視線が合った。
「……っ」
 息が詰まる。身体の内側に、ひどく緩やかな振動がおとずれた。あのひとは都古を見上げたままひとみを細めた。静かに。何かを見抜く悲しげな眸で。そのひとみにどんな世界が映っているのか、都古は知らない。知りたくはない。興味はない。なのに、引きずり込まれる――必死に視線を逸らした。
 あの人は何も言わなかった。立ち去っていく足音を聞きながら、都古は唇をかみ締めた。
 
 最後まで可愛くなかったな。
 
 ふと、そんなことを思っていた。
 
終わり。
 張見世にはでないと決めていた。花車に責められ水責めにあってもそれは終ぞ変わらない。大門が開き女郎たちが着物の裾をひろげて格子の前に並ぶ。それを横目に見ながら汐乃は階段に坐っていた。
 飴色に染まった階段と、彫り物のほられた複雑なかたちの手すりはいつでもきれいに磨かれている。それは禿の仕事だった。今朝方も、夕花おいらんのとこの禿が半分泣きながら掃除をしていた。しげりという名のその禿は、器量のわるいので力仕事を押し付けられる。
 もちろん理由はそれだけではなく、最近の夕花の稼ぎが悪いのも関係しているのだが。弓場のおとこに入れあげているらしい。お大尽を袖にしているとか何とかで、女将に苦言を云われていた。汐乃は湯に行く途中でそれを聞いた。お大尽がつくだけマシってもんさ、と内心思った。
 汐乃は禿も新造も抱えてはいない、ひどく気楽な立場だった。それを姐女郎たちは「逃げてんのさ、厭なおんなだ」とののしるが汐乃にとって、これは親切心だった。
 汐乃の禿になどなればその娘が苦労するのは目に見えている。だから禿をもたないのだ、といつだかしたり顔で云った汐乃のほほを番頭は麻の縄で叩いた。
「客もとらねえでよくもそんな、」
 たしかそんな言葉でののしられた。あまり憶えてはいない。くるわで生きる秘訣は全てを忘れることだ。花車の責めもののしることばも客との睦みも何もかも。
 だから何故自分が張見世に出ようとしないのか、その理由も忘れてしまった。忘れたということは大した理由ではなかったのだ。汐乃はそう思うことにしている。
 
「おや汐乃」
 こえをかけられ、見あげると廊下をあるく着流しの客が手すりに肘をかけてこちらを見おろしていた。お職の藤のきの大尽だったか。禿げたあたまをつるりと撫でて汐乃ににやりと笑いかける。居流しでもしたのだろう。はだけた着物が遊びなれたふうである。
「きさままた張見世に出なかったそうじゃないか。出し惜しむたまでもあるまいし、何故そうも頑ななんでえ」
「わっちが何しようと勝手でござんしょう。せめて芯が通ってるとでも云っておくんなんし、」
 汐乃のことばにおとこはけらけらと無邪気に笑い、手前そんなこと云える立場かとさも可笑しげにこえをあげる。汐乃は柄がわるかった。新造のころからこんなものだったので、馴染みはみな汐乃の物言いに文句も云わない。
 手前あのころはまだ可愛げがあったなあ、とおとこが云い、汐乃も昔をおもいだした。汐乃は売り出し妓だった。もとの器量がいいのと気風が粋なこともあって、一時は番付の上位に名を連ねていた。
 それがいつ変わったのか。
 汐乃には思い出せなかった。はるか頭上のおとこは時間があったら手前の部屋にも寄ってやるぜ、とことばを残して去って行き、汐乃は階段に足をなげだして溜め息をつく。紅い襦袢がはだけて白い大腿が見えたが汐乃はちっとも気にしない。遠くでは張見世の呼子がさわいでいて、時折、おいらんに客が付いたのかはしゃいだ素振りの新造や禿が通っては消える。
 汐乃が此処にいるのはいつものことなので、誰も汐乃にこえをかけない。かけるのは一見の客くらいで、物好きな視線ではだけた肢を見おろしてきた武士にはかかとで蹴りを食らわせた。
「汐乃!」
 客にしだれかかっていた女郎がまなじりをあげて汐乃を睨んでくる。汐乃はそ知らぬふりをした。
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