luna y perroluna y perro
日々のぼやき
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うららかな春の日差しが空気を生温かく包んでいた。風もないおだやかな日だが、あたたかな気候は窓のさっしをじりじりと焦がした。頬杖をついていた肘がわずかに熱くなる。ちっと内心舌打ちをして、二階の窓から見える家の前の道路を見下ろした。
ちょうど、あの人が母親にあたまを下げているところだった。あらかたの荷物は先に遠野家へ送ってしまったので持っているのはボストンバッグがひとつだけだ。母親が何かを話しかけている。おっとりとした口調に、あの人が何度か頷いた。
「ありがとうございます、おばさん」
またお辞儀をする。深々と、慇懃に。
そう、あのひとは最初会ったときもお辞儀をしたのだ。
そんなことを思い出した。
初めて会ったときの印象はあまり良いものじゃなかっただろう。と、自分でもその時の記憶を思い出すと表情がゆがむ。いろいろあって機嫌が悪かったのだ。だから突然あらわれたあの人を歓迎する気にはなれなかったし、これから一緒に住むことになるのよと上機嫌に告げた母親のことばに思わずにがむしを百匹ぐらい噛み潰したような顔をしてしまった。
「ごめんね」
あのひとは困ったように笑って言った。自分より遥かに年下の子供の機嫌など気にしなければいいのに、眼鏡の奥にあるひとみを曇らせてほほ笑んだ。今と比べればあの人は子供も同然だったけれど、その当時はまるで大人のようだと思った。物静かな雰囲気の所為だと思う。その雰囲気がふにゃりと崩れて形を失う。せつなげな雰囲気だった。
泣きそうだ、と思うと、一気に胸がつかれた。
泣かせてしまう…あのひとが泣く気配なんてこれっぽちもなかったのに都古は慌て、「別にいいのよ」とこしゃまっくれた口調で言った。周章しながら言ったので呂律がまわらず、そのうえ表情は見事に生意気なものになった。
そのとき、あの人がどう思ったのかはよく分からない。生意気なガキだと思われたかもしれないし、莫迦にされていると内心憤慨していたのかもしれない。都古にはあの人の気持ちなど分からないから、その時あのひとが抱いた印象を悟ることは決してない。これまでも、そしてこれからも。
「良かった」
あの人はにっこりと笑った。その笑顔に、一瞬都古はことばをなくした。玄関の曇りガラスから差し込んだ日差しが飾り気のない眼鏡を薄ら白く光らせる。その奥にあるあの人のひとみは、とりたててうつくしいものではなかったのに何故か都古のこころを掴んだ。ぎゅっと、心臓を、握るように。
細まった目元の所為かもしれない。切れ長の目尻が静かに伏せられる様子は、にっこりと笑っているにもかかわらず何処か揺らめくような情景をかもしだしていた。
印象的な、ひとみ。
息を呑んだ都古に、あのひとは「どうしたの?」と首をかしげた。年相応な飾り気のない仕草に、都古ははっと我に返って「何でもない」と硬い口調で視線を逸らした。
我ながら、可愛げのない出会い方だったと今さらながらに思い出した。過去に戻れるものならあの日にもどってもう少しかわいらしい挨拶をしておきたかった。そうすればもっと、あの人に近づけた筈なのに――都古は組んだうでにかおを押し付けた。
最初の出会い方があまり良いものではなかったので、結局あのひととの距離は縮まらないままだった。ぎくしゃくした会話や互いの立ち位置をはかるやりとりを繰り返しただけで、だから都古は、あのひとに対して抱いている感情が何なのかを今ひとつ掴みかねていた。
不自然な共同生活――それでも、時たまあのひとと視線が合うたびに都古のこころは苦しくなった。初対面の、泣きそうな笑顔がこころの何処かに残っていたのかもしれない。あのひとの眸は人を直視しないくせに何かを見抜いているようなところがあって、その眼鏡に隠された虹彩で見つめられるたびに都古は小さな子供のように泣き喚きたくなってしまった。
この気持ちが何なのか、まだ都古は知らない。
知りたくもなかったし、折り合いをつけられるほどはっきりしたものでもなかった。薄らぼんやりとしていて掴み所がない。ただぐっと苦しくなる自分のこころを抱えて、あのひとのひとみを遣り過ごしていた。
「知らない……」
頬杖をついたまま、呟いた。眼下ではあの人がきびすを返すところだった。ふと上を見上げる。視線が合った。
「……っ」
息が詰まる。身体の内側に、ひどく緩やかな振動がおとずれた。あのひとは都古を見上げたままひとみを細めた。静かに。何かを見抜く悲しげな眸で。そのひとみにどんな世界が映っているのか、都古は知らない。知りたくはない。興味はない。なのに、引きずり込まれる――必死に視線を逸らした。
あの人は何も言わなかった。立ち去っていく足音を聞きながら、都古は唇をかみ締めた。
最後まで可愛くなかったな。
ふと、そんなことを思っていた。
終わり。
ちょうど、あの人が母親にあたまを下げているところだった。あらかたの荷物は先に遠野家へ送ってしまったので持っているのはボストンバッグがひとつだけだ。母親が何かを話しかけている。おっとりとした口調に、あの人が何度か頷いた。
「ありがとうございます、おばさん」
またお辞儀をする。深々と、慇懃に。
そう、あのひとは最初会ったときもお辞儀をしたのだ。
そんなことを思い出した。
初めて会ったときの印象はあまり良いものじゃなかっただろう。と、自分でもその時の記憶を思い出すと表情がゆがむ。いろいろあって機嫌が悪かったのだ。だから突然あらわれたあの人を歓迎する気にはなれなかったし、これから一緒に住むことになるのよと上機嫌に告げた母親のことばに思わずにがむしを百匹ぐらい噛み潰したような顔をしてしまった。
「ごめんね」
あのひとは困ったように笑って言った。自分より遥かに年下の子供の機嫌など気にしなければいいのに、眼鏡の奥にあるひとみを曇らせてほほ笑んだ。今と比べればあの人は子供も同然だったけれど、その当時はまるで大人のようだと思った。物静かな雰囲気の所為だと思う。その雰囲気がふにゃりと崩れて形を失う。せつなげな雰囲気だった。
泣きそうだ、と思うと、一気に胸がつかれた。
泣かせてしまう…あのひとが泣く気配なんてこれっぽちもなかったのに都古は慌て、「別にいいのよ」とこしゃまっくれた口調で言った。周章しながら言ったので呂律がまわらず、そのうえ表情は見事に生意気なものになった。
そのとき、あの人がどう思ったのかはよく分からない。生意気なガキだと思われたかもしれないし、莫迦にされていると内心憤慨していたのかもしれない。都古にはあの人の気持ちなど分からないから、その時あのひとが抱いた印象を悟ることは決してない。これまでも、そしてこれからも。
「良かった」
あの人はにっこりと笑った。その笑顔に、一瞬都古はことばをなくした。玄関の曇りガラスから差し込んだ日差しが飾り気のない眼鏡を薄ら白く光らせる。その奥にあるあの人のひとみは、とりたててうつくしいものではなかったのに何故か都古のこころを掴んだ。ぎゅっと、心臓を、握るように。
細まった目元の所為かもしれない。切れ長の目尻が静かに伏せられる様子は、にっこりと笑っているにもかかわらず何処か揺らめくような情景をかもしだしていた。
印象的な、ひとみ。
息を呑んだ都古に、あのひとは「どうしたの?」と首をかしげた。年相応な飾り気のない仕草に、都古ははっと我に返って「何でもない」と硬い口調で視線を逸らした。
我ながら、可愛げのない出会い方だったと今さらながらに思い出した。過去に戻れるものならあの日にもどってもう少しかわいらしい挨拶をしておきたかった。そうすればもっと、あの人に近づけた筈なのに――都古は組んだうでにかおを押し付けた。
最初の出会い方があまり良いものではなかったので、結局あのひととの距離は縮まらないままだった。ぎくしゃくした会話や互いの立ち位置をはかるやりとりを繰り返しただけで、だから都古は、あのひとに対して抱いている感情が何なのかを今ひとつ掴みかねていた。
不自然な共同生活――それでも、時たまあのひとと視線が合うたびに都古のこころは苦しくなった。初対面の、泣きそうな笑顔がこころの何処かに残っていたのかもしれない。あのひとの眸は人を直視しないくせに何かを見抜いているようなところがあって、その眼鏡に隠された虹彩で見つめられるたびに都古は小さな子供のように泣き喚きたくなってしまった。
この気持ちが何なのか、まだ都古は知らない。
知りたくもなかったし、折り合いをつけられるほどはっきりしたものでもなかった。薄らぼんやりとしていて掴み所がない。ただぐっと苦しくなる自分のこころを抱えて、あのひとのひとみを遣り過ごしていた。
「知らない……」
頬杖をついたまま、呟いた。眼下ではあの人がきびすを返すところだった。ふと上を見上げる。視線が合った。
「……っ」
息が詰まる。身体の内側に、ひどく緩やかな振動がおとずれた。あのひとは都古を見上げたままひとみを細めた。静かに。何かを見抜く悲しげな眸で。そのひとみにどんな世界が映っているのか、都古は知らない。知りたくはない。興味はない。なのに、引きずり込まれる――必死に視線を逸らした。
あの人は何も言わなかった。立ち去っていく足音を聞きながら、都古は唇をかみ締めた。
最後まで可愛くなかったな。
ふと、そんなことを思っていた。
終わり。
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