luna y perroluna y perro
日々のぼやき
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○小話(ネウヤコ)
例えば、とネウロが言った。例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
例えば。
あの時の返答をどうかえしておけば良かったのか、弥子は未だに分からないままだった。普通に生活していても時おりぼんやりとあの時のことを思い出してしまう。窓辺に佇んでいたネウロの横顔や、日差しがあたったネウロの白い肌やこちらに伸ばされた長く優雅に曲がるゆびさき。
考え事をしているあいだに信号が変わったらしい。周囲の人がいっせいに動きはじめて、弥子はその波にもまれるように交差点を渡った。繁華街は色々な音や匂いに溢れている。となりにいた男性の肩にぶつかって、ねっとりとした汗の感触に知らずに弥子は眉を寄せた。
ネウロは汗をかかなかった。
魔人の性質なのだろう、ネウロの肌は冷たく湿った感触があったがそれは決して汗ではなかった。陶器のようなものだと思う。或るいはゆびさきで擦る水面の感触。
繁華街をぬけて路地裏に入った。狭いアスファルトの道路は両脇から迫るように家が建てられ、キヅタの絡まった電柱が道路を余計に狭くみせている。密集したアロエの翠が鮮やかに網膜にやきついて、またはノウゼンカヅラの緩やかな橙色が熱気のこもった風にゆれている。
蒸せる花の匂いを感じながら行きつけの定食屋の暖簾を潜った。とびらの脇に植えられたコルジリネが濃い緑色の葉を伸ばしている。手を差し伸べると硬い先端が皮膚に刺さった。他の葉をみると、先端をくるりと曲げて葉の根元につきさしていた。女将がやったのだろうか。どこか窮屈な気がして、しゃがみこんで葉のひとつを根元から抜いた。それでも葉はくるりと曲がったままだった。
もう癖が付いているのだ。
苦しくても、それが当然になってしまえば戻ることに恐怖を覚える。
そんなことを考えながらとびらを開いた。一瞬だけ、コルジリネをちらりと見た。
食堂にはあまり客がいなかった。暇そうに煙草をふかしていた女将さんが弥子に気付いて立ち上がり、いつものでしょうと尋ねてくる。頷いて、いちばん奥の席に坐った。隣の家の庭から漏れたヤツデの葉が曇り硝子にべったりと緑の陰を落としている。
「はい、お待たせ。いつもの」
と、大盛りのどんぶりを目の前に置かれた。割り箸をわっていると女将がどうせツケなんでしょうと尋ねてきたので月末にまとめて払うからと答えておいた。そうなの、なら大丈夫よね。ツケを回収したことなどないくせに女将は頷いた。たまに弥子が払おうとしてもどういった理由でか断られる。
やる気がないのか。
ふと、逃げ出した旦那を待つためだけに店を開いているのだと、そんな噂を思い出したがすぐに忘れた。どんぶりは美味かった。量も多かったので満足した。
食べ終わってからも弥子はしばらく席に座ったままだった。頬杖を付いて窓ガラスの濃い緑を眺める。そういえば、あの時もこんな季節だった。事務所の隣に植えられた若い楠木の薄みどり色が窓に淡黄色の模様をえがいていた。
例えば、とあの魔人は言ったのだ。
例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
例えば、と。
その時のネウロの表情を弥子はおぼえていなかった。思い出そうとするとぐちゃぐちゃに歪んで千切れてどこかに飛んでいってしまう。嗤っていたのかも知れないし、蔑んでいたのかもしれない。もしかすると…そう、もしかすると欠片ほどは寂しさを見せてくれていたのかもしれなかった。または計り知れない感情を抱えて表情を歪めていたのかも。
ヤコ、と呼ぶ声をおぼえている。食事をとる弥子を眺める呆れた視線や、弥子をいじめるときの得意げな笑顔や、謎を見つけた時のかがやいた表情や、ふとした時に見せる途方にくれた眼差しや。
普段見ていたネウロはいくらでも思い出せるのに、どうしてだろう、最後のネウロの表情だけが思い出せないのだ。弥子は曇りガラスの淡黄色を見つめながらネウロのことを考えた。目蓋が熱くて、苦しくて、唾液を飲み込むとそれはひどく塩辛かった。
「弥子ちゃん、どうしたの? 悲しいの?」
女将のあわてた声が聞こえて、それでようやく弥子は自分が泣いていることに気が付いた。涙がとまらない。店に入る前に見たコルジリネを思い出した。元にはもどらない葉が、まるで自分のようだと思った。
苦しくても、それが当然になればもう戻れないのだ。
ネウロが戻ってこないのは自分がネウロの喪失を当然と受け止めてしまったからか。弥子は思い、必死にくびを左右に振った。そんなことがある筈はない。自分はネウロの喪失をこれほどまでに受け入れていないのに。だからきっと、ネウロは戻ってくるはずなのに。
弥子はテーブルに突っ伏して泣き喚いた。ネウロが戻ってくるのなら、他の何もいらないと祈るように思った。
例えば、とネウロは言った。例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
ネウロが居なくなったら、と弥子は答えた。例えば、そう例えばだけどネウロ、ネウロが居なくなったらわたしはきっと、そう、きっとね。
ものすごく悲しいと思うんだ。
この世界を喪うくらい、きっと、悲しい。
終わり。
例えば、とネウロが言った。例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
例えば。
あの時の返答をどうかえしておけば良かったのか、弥子は未だに分からないままだった。普通に生活していても時おりぼんやりとあの時のことを思い出してしまう。窓辺に佇んでいたネウロの横顔や、日差しがあたったネウロの白い肌やこちらに伸ばされた長く優雅に曲がるゆびさき。
考え事をしているあいだに信号が変わったらしい。周囲の人がいっせいに動きはじめて、弥子はその波にもまれるように交差点を渡った。繁華街は色々な音や匂いに溢れている。となりにいた男性の肩にぶつかって、ねっとりとした汗の感触に知らずに弥子は眉を寄せた。
ネウロは汗をかかなかった。
魔人の性質なのだろう、ネウロの肌は冷たく湿った感触があったがそれは決して汗ではなかった。陶器のようなものだと思う。或るいはゆびさきで擦る水面の感触。
繁華街をぬけて路地裏に入った。狭いアスファルトの道路は両脇から迫るように家が建てられ、キヅタの絡まった電柱が道路を余計に狭くみせている。密集したアロエの翠が鮮やかに網膜にやきついて、またはノウゼンカヅラの緩やかな橙色が熱気のこもった風にゆれている。
蒸せる花の匂いを感じながら行きつけの定食屋の暖簾を潜った。とびらの脇に植えられたコルジリネが濃い緑色の葉を伸ばしている。手を差し伸べると硬い先端が皮膚に刺さった。他の葉をみると、先端をくるりと曲げて葉の根元につきさしていた。女将がやったのだろうか。どこか窮屈な気がして、しゃがみこんで葉のひとつを根元から抜いた。それでも葉はくるりと曲がったままだった。
もう癖が付いているのだ。
苦しくても、それが当然になってしまえば戻ることに恐怖を覚える。
そんなことを考えながらとびらを開いた。一瞬だけ、コルジリネをちらりと見た。
食堂にはあまり客がいなかった。暇そうに煙草をふかしていた女将さんが弥子に気付いて立ち上がり、いつものでしょうと尋ねてくる。頷いて、いちばん奥の席に坐った。隣の家の庭から漏れたヤツデの葉が曇り硝子にべったりと緑の陰を落としている。
「はい、お待たせ。いつもの」
と、大盛りのどんぶりを目の前に置かれた。割り箸をわっていると女将がどうせツケなんでしょうと尋ねてきたので月末にまとめて払うからと答えておいた。そうなの、なら大丈夫よね。ツケを回収したことなどないくせに女将は頷いた。たまに弥子が払おうとしてもどういった理由でか断られる。
やる気がないのか。
ふと、逃げ出した旦那を待つためだけに店を開いているのだと、そんな噂を思い出したがすぐに忘れた。どんぶりは美味かった。量も多かったので満足した。
食べ終わってからも弥子はしばらく席に座ったままだった。頬杖を付いて窓ガラスの濃い緑を眺める。そういえば、あの時もこんな季節だった。事務所の隣に植えられた若い楠木の薄みどり色が窓に淡黄色の模様をえがいていた。
例えば、とあの魔人は言ったのだ。
例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
例えば、と。
その時のネウロの表情を弥子はおぼえていなかった。思い出そうとするとぐちゃぐちゃに歪んで千切れてどこかに飛んでいってしまう。嗤っていたのかも知れないし、蔑んでいたのかもしれない。もしかすると…そう、もしかすると欠片ほどは寂しさを見せてくれていたのかもしれなかった。または計り知れない感情を抱えて表情を歪めていたのかも。
ヤコ、と呼ぶ声をおぼえている。食事をとる弥子を眺める呆れた視線や、弥子をいじめるときの得意げな笑顔や、謎を見つけた時のかがやいた表情や、ふとした時に見せる途方にくれた眼差しや。
普段見ていたネウロはいくらでも思い出せるのに、どうしてだろう、最後のネウロの表情だけが思い出せないのだ。弥子は曇りガラスの淡黄色を見つめながらネウロのことを考えた。目蓋が熱くて、苦しくて、唾液を飲み込むとそれはひどく塩辛かった。
「弥子ちゃん、どうしたの? 悲しいの?」
女将のあわてた声が聞こえて、それでようやく弥子は自分が泣いていることに気が付いた。涙がとまらない。店に入る前に見たコルジリネを思い出した。元にはもどらない葉が、まるで自分のようだと思った。
苦しくても、それが当然になればもう戻れないのだ。
ネウロが戻ってこないのは自分がネウロの喪失を当然と受け止めてしまったからか。弥子は思い、必死にくびを左右に振った。そんなことがある筈はない。自分はネウロの喪失をこれほどまでに受け入れていないのに。だからきっと、ネウロは戻ってくるはずなのに。
弥子はテーブルに突っ伏して泣き喚いた。ネウロが戻ってくるのなら、他の何もいらないと祈るように思った。
例えば、とネウロは言った。例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
ネウロが居なくなったら、と弥子は答えた。例えば、そう例えばだけどネウロ、ネウロが居なくなったらわたしはきっと、そう、きっとね。
ものすごく悲しいと思うんだ。
この世界を喪うくらい、きっと、悲しい。
終わり。
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