luna y perroluna y perro
日々のぼやき
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○小話(ネウヤコ)
例えば、とネウロが言った。例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
例えば。
あの時の返答をどうかえしておけば良かったのか、弥子は未だに分からないままだった。普通に生活していても時おりぼんやりとあの時のことを思い出してしまう。窓辺に佇んでいたネウロの横顔や、日差しがあたったネウロの白い肌やこちらに伸ばされた長く優雅に曲がるゆびさき。
考え事をしているあいだに信号が変わったらしい。周囲の人がいっせいに動きはじめて、弥子はその波にもまれるように交差点を渡った。繁華街は色々な音や匂いに溢れている。となりにいた男性の肩にぶつかって、ねっとりとした汗の感触に知らずに弥子は眉を寄せた。
ネウロは汗をかかなかった。
魔人の性質なのだろう、ネウロの肌は冷たく湿った感触があったがそれは決して汗ではなかった。陶器のようなものだと思う。或るいはゆびさきで擦る水面の感触。
繁華街をぬけて路地裏に入った。狭いアスファルトの道路は両脇から迫るように家が建てられ、キヅタの絡まった電柱が道路を余計に狭くみせている。密集したアロエの翠が鮮やかに網膜にやきついて、またはノウゼンカヅラの緩やかな橙色が熱気のこもった風にゆれている。
蒸せる花の匂いを感じながら行きつけの定食屋の暖簾を潜った。とびらの脇に植えられたコルジリネが濃い緑色の葉を伸ばしている。手を差し伸べると硬い先端が皮膚に刺さった。他の葉をみると、先端をくるりと曲げて葉の根元につきさしていた。女将がやったのだろうか。どこか窮屈な気がして、しゃがみこんで葉のひとつを根元から抜いた。それでも葉はくるりと曲がったままだった。
もう癖が付いているのだ。
苦しくても、それが当然になってしまえば戻ることに恐怖を覚える。
そんなことを考えながらとびらを開いた。一瞬だけ、コルジリネをちらりと見た。
食堂にはあまり客がいなかった。暇そうに煙草をふかしていた女将さんが弥子に気付いて立ち上がり、いつものでしょうと尋ねてくる。頷いて、いちばん奥の席に坐った。隣の家の庭から漏れたヤツデの葉が曇り硝子にべったりと緑の陰を落としている。
「はい、お待たせ。いつもの」
と、大盛りのどんぶりを目の前に置かれた。割り箸をわっていると女将がどうせツケなんでしょうと尋ねてきたので月末にまとめて払うからと答えておいた。そうなの、なら大丈夫よね。ツケを回収したことなどないくせに女将は頷いた。たまに弥子が払おうとしてもどういった理由でか断られる。
やる気がないのか。
ふと、逃げ出した旦那を待つためだけに店を開いているのだと、そんな噂を思い出したがすぐに忘れた。どんぶりは美味かった。量も多かったので満足した。
食べ終わってからも弥子はしばらく席に座ったままだった。頬杖を付いて窓ガラスの濃い緑を眺める。そういえば、あの時もこんな季節だった。事務所の隣に植えられた若い楠木の薄みどり色が窓に淡黄色の模様をえがいていた。
例えば、とあの魔人は言ったのだ。
例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
例えば、と。
その時のネウロの表情を弥子はおぼえていなかった。思い出そうとするとぐちゃぐちゃに歪んで千切れてどこかに飛んでいってしまう。嗤っていたのかも知れないし、蔑んでいたのかもしれない。もしかすると…そう、もしかすると欠片ほどは寂しさを見せてくれていたのかもしれなかった。または計り知れない感情を抱えて表情を歪めていたのかも。
ヤコ、と呼ぶ声をおぼえている。食事をとる弥子を眺める呆れた視線や、弥子をいじめるときの得意げな笑顔や、謎を見つけた時のかがやいた表情や、ふとした時に見せる途方にくれた眼差しや。
普段見ていたネウロはいくらでも思い出せるのに、どうしてだろう、最後のネウロの表情だけが思い出せないのだ。弥子は曇りガラスの淡黄色を見つめながらネウロのことを考えた。目蓋が熱くて、苦しくて、唾液を飲み込むとそれはひどく塩辛かった。
「弥子ちゃん、どうしたの? 悲しいの?」
女将のあわてた声が聞こえて、それでようやく弥子は自分が泣いていることに気が付いた。涙がとまらない。店に入る前に見たコルジリネを思い出した。元にはもどらない葉が、まるで自分のようだと思った。
苦しくても、それが当然になればもう戻れないのだ。
ネウロが戻ってこないのは自分がネウロの喪失を当然と受け止めてしまったからか。弥子は思い、必死にくびを左右に振った。そんなことがある筈はない。自分はネウロの喪失をこれほどまでに受け入れていないのに。だからきっと、ネウロは戻ってくるはずなのに。
弥子はテーブルに突っ伏して泣き喚いた。ネウロが戻ってくるのなら、他の何もいらないと祈るように思った。
例えば、とネウロは言った。例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
ネウロが居なくなったら、と弥子は答えた。例えば、そう例えばだけどネウロ、ネウロが居なくなったらわたしはきっと、そう、きっとね。
ものすごく悲しいと思うんだ。
この世界を喪うくらい、きっと、悲しい。
終わり。
例えば、とネウロが言った。例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
例えば。
あの時の返答をどうかえしておけば良かったのか、弥子は未だに分からないままだった。普通に生活していても時おりぼんやりとあの時のことを思い出してしまう。窓辺に佇んでいたネウロの横顔や、日差しがあたったネウロの白い肌やこちらに伸ばされた長く優雅に曲がるゆびさき。
考え事をしているあいだに信号が変わったらしい。周囲の人がいっせいに動きはじめて、弥子はその波にもまれるように交差点を渡った。繁華街は色々な音や匂いに溢れている。となりにいた男性の肩にぶつかって、ねっとりとした汗の感触に知らずに弥子は眉を寄せた。
ネウロは汗をかかなかった。
魔人の性質なのだろう、ネウロの肌は冷たく湿った感触があったがそれは決して汗ではなかった。陶器のようなものだと思う。或るいはゆびさきで擦る水面の感触。
繁華街をぬけて路地裏に入った。狭いアスファルトの道路は両脇から迫るように家が建てられ、キヅタの絡まった電柱が道路を余計に狭くみせている。密集したアロエの翠が鮮やかに網膜にやきついて、またはノウゼンカヅラの緩やかな橙色が熱気のこもった風にゆれている。
蒸せる花の匂いを感じながら行きつけの定食屋の暖簾を潜った。とびらの脇に植えられたコルジリネが濃い緑色の葉を伸ばしている。手を差し伸べると硬い先端が皮膚に刺さった。他の葉をみると、先端をくるりと曲げて葉の根元につきさしていた。女将がやったのだろうか。どこか窮屈な気がして、しゃがみこんで葉のひとつを根元から抜いた。それでも葉はくるりと曲がったままだった。
もう癖が付いているのだ。
苦しくても、それが当然になってしまえば戻ることに恐怖を覚える。
そんなことを考えながらとびらを開いた。一瞬だけ、コルジリネをちらりと見た。
食堂にはあまり客がいなかった。暇そうに煙草をふかしていた女将さんが弥子に気付いて立ち上がり、いつものでしょうと尋ねてくる。頷いて、いちばん奥の席に坐った。隣の家の庭から漏れたヤツデの葉が曇り硝子にべったりと緑の陰を落としている。
「はい、お待たせ。いつもの」
と、大盛りのどんぶりを目の前に置かれた。割り箸をわっていると女将がどうせツケなんでしょうと尋ねてきたので月末にまとめて払うからと答えておいた。そうなの、なら大丈夫よね。ツケを回収したことなどないくせに女将は頷いた。たまに弥子が払おうとしてもどういった理由でか断られる。
やる気がないのか。
ふと、逃げ出した旦那を待つためだけに店を開いているのだと、そんな噂を思い出したがすぐに忘れた。どんぶりは美味かった。量も多かったので満足した。
食べ終わってからも弥子はしばらく席に座ったままだった。頬杖を付いて窓ガラスの濃い緑を眺める。そういえば、あの時もこんな季節だった。事務所の隣に植えられた若い楠木の薄みどり色が窓に淡黄色の模様をえがいていた。
例えば、とあの魔人は言ったのだ。
例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
例えば、と。
その時のネウロの表情を弥子はおぼえていなかった。思い出そうとするとぐちゃぐちゃに歪んで千切れてどこかに飛んでいってしまう。嗤っていたのかも知れないし、蔑んでいたのかもしれない。もしかすると…そう、もしかすると欠片ほどは寂しさを見せてくれていたのかもしれなかった。または計り知れない感情を抱えて表情を歪めていたのかも。
ヤコ、と呼ぶ声をおぼえている。食事をとる弥子を眺める呆れた視線や、弥子をいじめるときの得意げな笑顔や、謎を見つけた時のかがやいた表情や、ふとした時に見せる途方にくれた眼差しや。
普段見ていたネウロはいくらでも思い出せるのに、どうしてだろう、最後のネウロの表情だけが思い出せないのだ。弥子は曇りガラスの淡黄色を見つめながらネウロのことを考えた。目蓋が熱くて、苦しくて、唾液を飲み込むとそれはひどく塩辛かった。
「弥子ちゃん、どうしたの? 悲しいの?」
女将のあわてた声が聞こえて、それでようやく弥子は自分が泣いていることに気が付いた。涙がとまらない。店に入る前に見たコルジリネを思い出した。元にはもどらない葉が、まるで自分のようだと思った。
苦しくても、それが当然になればもう戻れないのだ。
ネウロが戻ってこないのは自分がネウロの喪失を当然と受け止めてしまったからか。弥子は思い、必死にくびを左右に振った。そんなことがある筈はない。自分はネウロの喪失をこれほどまでに受け入れていないのに。だからきっと、ネウロは戻ってくるはずなのに。
弥子はテーブルに突っ伏して泣き喚いた。ネウロが戻ってくるのなら、他の何もいらないと祈るように思った。
例えば、とネウロは言った。例えば、そう例えばだがヤコ、例えば我輩が貴様の前から居なくなるとしよう、そんな顔をするなヤコ、例えばの話だ、ただの仮定の話なのだから、と。
例えば、我輩が居なくなったら。
ネウロが居なくなったら、と弥子は答えた。例えば、そう例えばだけどネウロ、ネウロが居なくなったらわたしはきっと、そう、きっとね。
ものすごく悲しいと思うんだ。
この世界を喪うくらい、きっと、悲しい。
終わり。
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ネウロが傷をつけて帰ってきた。
真夜中の事務所で、月明かりを背に窓から侵入してきた魔人は血塗れの姿をしていた。悠然とした表情にはべっとりと赤黒い血がこびりついていて、白目だけが浮きあがっている。翡翠色のひとみが無感情に弥子を見おろしていた。道端の石を眺めるような視線だ。
「どうしたの、それ」
トリートメント中のあかねちゃんを手放して尋ねると、「ちょっとした手違いがあってな」とつぶやく。特に感情をもたせない口調が、逆に拗ねた子供のようだと弥子はおもった。
多分サイとでもやりあったのだとあたりを付ける。今回関わった事件には、かの怪盗が絡んでいたのだ。人外の戦闘に巻き込まれるのは真っ平ごめんだと弥子はそうそうに退散したが、そのあと予測どおり凄惨な戦いが繰り広げられていたらしい。
ただ、ネウロが痛めつけられるとは予想外だった。返り血かとも思ったが、どうやら全てネウロの血らしい。窓枠から降り立ったネウロの片足がざっくりと抉れて赤黒いなかに白い骨が見えていた。あまりの光景に弥子はくらっとして、そのうえ左手がもげているのを目にしてその場に倒れこみそうになった。
「サイにやられたの…?」
眩暈をおぼえながらも尋ねると、「いいや、ちょっとした手違いだ」という答えが返ってきた。どんな手違いがあれば片手がもげるのか、是非おしえてほしいところだ。そのうえ何の手違いで足の肉をそっくり抉られたのだろう。
「ひと晩寝れば治るだろう。見た目ほどは酷くない」
「いや、どう見たって酷いから、それ」
もう何からつっこんでいいものやら。頭をかかえる弥子の脇におりたった魔人は平然とした素振りで何かを弥子の前に投げ捨てた。月明かりに照らされたそれはもげた手首の先で、血がぬらぬらと光っている。床に血と肉があたる、べちょっという音が生々しく聞こえて、弥子はこみあげてきた吐き気を唾を呑んでやりすごした。
魔人と付き合ってからはある程度のスプラッタにも慣れたつもりだったがこれはきつい。唇を両手で覆った弥子を面白そうに見おろして、魔人はいっそ爽やかなほどの微笑みをうかべた。
「おや、先生には少し刺激が強すぎましたか? 顔色がかなり悪いようですが」
他人がいないのに外面が良くなるとき、魔人はきまって機嫌がわるい。ちらりと見るとこちらを覗きこむネウロの表情はやわらかな笑みをうかべていたが、瞳だけが笑っていない。硬質なかがやきを見せる虹彩を見てとって、どうやら本気で機嫌がわるいようだと悟った。不本意な怪我に苛立っているのだろうか。かといって諾々と八つ当たりをされるいわれは無いので、弥子は目をそらして瞳を伏せた。
飲み込んだ唾液はひどく酸っぱい。血のにおいが咥内にべっとりと貼りつく気がした。
ネウロがうごく気配がする。血の臭いが濃くなって、次の瞬間にはほほに生暖かいものが触れた。
べっとりとした血と肉の感触。骨の固い感触までリアルに感じた。途切れた手首が弥子のほほをさする。皮膚に血が濃くからみついた。
「なぁ、ヤコ」
魔人は歌うように呼びかけてきた。返事をしない弥子を咎めることもしない。ねっとりとしたネウロの肉の感触に眩暈がおこった。くちびるが小刻みに震える。
「貴様の手首も取ってやろうか」
ネウロの言葉は子供みたいに、純真な響きをおびていた。いいことを思いついた、そう告げるネウロは先程までの機嫌のわるさなどとうに忘れ去ったようだった。いや、それは仮面で、本当はまだ不機嫌なままで弥子をつかって腹いせをしているだけかもしれない。どちらにしろ、頬をさする毒々しいまでの感触は変わらない。
ネウロの血。肉。
普段、ネウロから生というものを感じることは殆どない。人形のような顔立ちや無機質な雰囲気は、まるで作り物のようだった。けれど血を流すネウロからは確実に「生」を感じる。グロテスクなパラドックスだ。
ネウロの血と肉。
眩暈をおぼえた。ネウロの血のにおいが弥子の体内をゆっくりと侵す。ネウロの声が、どこか遠くで聞こえていた。
「貴様の手首を取れば、我輩とおそろいだ。ペアルックとかいうのだろう。面白そうだな」
「……」
血と肉と、生きているネウロ。
自分は、この魔人に身体を千切られるだろう。
血の臭いに塗れた弥子は、その未来に思いを馳せた。それは自分でも驚くことに恐怖や苦しみなど殆ど感じないまるで甘美な想像だった。
終わり。
→原作のネウロを見ていると思うのですが、あの人がきれいなのは「謎」を喰っているときと血を流している時だな、とか。何が書きたかったのかというと「二人でもげた手首でペアルック」という部分です。最悪ですね…! どんな悪趣味なペアルックなんだ。そもそもペアルックという単語を何処で覚えてきたんだ、この魔人は。今の日本にそんな単語が現存していたのか。
真夜中の事務所で、月明かりを背に窓から侵入してきた魔人は血塗れの姿をしていた。悠然とした表情にはべっとりと赤黒い血がこびりついていて、白目だけが浮きあがっている。翡翠色のひとみが無感情に弥子を見おろしていた。道端の石を眺めるような視線だ。
「どうしたの、それ」
トリートメント中のあかねちゃんを手放して尋ねると、「ちょっとした手違いがあってな」とつぶやく。特に感情をもたせない口調が、逆に拗ねた子供のようだと弥子はおもった。
多分サイとでもやりあったのだとあたりを付ける。今回関わった事件には、かの怪盗が絡んでいたのだ。人外の戦闘に巻き込まれるのは真っ平ごめんだと弥子はそうそうに退散したが、そのあと予測どおり凄惨な戦いが繰り広げられていたらしい。
ただ、ネウロが痛めつけられるとは予想外だった。返り血かとも思ったが、どうやら全てネウロの血らしい。窓枠から降り立ったネウロの片足がざっくりと抉れて赤黒いなかに白い骨が見えていた。あまりの光景に弥子はくらっとして、そのうえ左手がもげているのを目にしてその場に倒れこみそうになった。
「サイにやられたの…?」
眩暈をおぼえながらも尋ねると、「いいや、ちょっとした手違いだ」という答えが返ってきた。どんな手違いがあれば片手がもげるのか、是非おしえてほしいところだ。そのうえ何の手違いで足の肉をそっくり抉られたのだろう。
「ひと晩寝れば治るだろう。見た目ほどは酷くない」
「いや、どう見たって酷いから、それ」
もう何からつっこんでいいものやら。頭をかかえる弥子の脇におりたった魔人は平然とした素振りで何かを弥子の前に投げ捨てた。月明かりに照らされたそれはもげた手首の先で、血がぬらぬらと光っている。床に血と肉があたる、べちょっという音が生々しく聞こえて、弥子はこみあげてきた吐き気を唾を呑んでやりすごした。
魔人と付き合ってからはある程度のスプラッタにも慣れたつもりだったがこれはきつい。唇を両手で覆った弥子を面白そうに見おろして、魔人はいっそ爽やかなほどの微笑みをうかべた。
「おや、先生には少し刺激が強すぎましたか? 顔色がかなり悪いようですが」
他人がいないのに外面が良くなるとき、魔人はきまって機嫌がわるい。ちらりと見るとこちらを覗きこむネウロの表情はやわらかな笑みをうかべていたが、瞳だけが笑っていない。硬質なかがやきを見せる虹彩を見てとって、どうやら本気で機嫌がわるいようだと悟った。不本意な怪我に苛立っているのだろうか。かといって諾々と八つ当たりをされるいわれは無いので、弥子は目をそらして瞳を伏せた。
飲み込んだ唾液はひどく酸っぱい。血のにおいが咥内にべっとりと貼りつく気がした。
ネウロがうごく気配がする。血の臭いが濃くなって、次の瞬間にはほほに生暖かいものが触れた。
べっとりとした血と肉の感触。骨の固い感触までリアルに感じた。途切れた手首が弥子のほほをさする。皮膚に血が濃くからみついた。
「なぁ、ヤコ」
魔人は歌うように呼びかけてきた。返事をしない弥子を咎めることもしない。ねっとりとしたネウロの肉の感触に眩暈がおこった。くちびるが小刻みに震える。
「貴様の手首も取ってやろうか」
ネウロの言葉は子供みたいに、純真な響きをおびていた。いいことを思いついた、そう告げるネウロは先程までの機嫌のわるさなどとうに忘れ去ったようだった。いや、それは仮面で、本当はまだ不機嫌なままで弥子をつかって腹いせをしているだけかもしれない。どちらにしろ、頬をさする毒々しいまでの感触は変わらない。
ネウロの血。肉。
普段、ネウロから生というものを感じることは殆どない。人形のような顔立ちや無機質な雰囲気は、まるで作り物のようだった。けれど血を流すネウロからは確実に「生」を感じる。グロテスクなパラドックスだ。
ネウロの血と肉。
眩暈をおぼえた。ネウロの血のにおいが弥子の体内をゆっくりと侵す。ネウロの声が、どこか遠くで聞こえていた。
「貴様の手首を取れば、我輩とおそろいだ。ペアルックとかいうのだろう。面白そうだな」
「……」
血と肉と、生きているネウロ。
自分は、この魔人に身体を千切られるだろう。
血の臭いに塗れた弥子は、その未来に思いを馳せた。それは自分でも驚くことに恐怖や苦しみなど殆ど感じないまるで甘美な想像だった。
終わり。
→原作のネウロを見ていると思うのですが、あの人がきれいなのは「謎」を喰っているときと血を流している時だな、とか。何が書きたかったのかというと「二人でもげた手首でペアルック」という部分です。最悪ですね…! どんな悪趣味なペアルックなんだ。そもそもペアルックという単語を何処で覚えてきたんだ、この魔人は。今の日本にそんな単語が現存していたのか。
ヤコ、と戯れに名前を呼ばれて弥子は振り向く。シーツに絡まったネウロのほほに明るい朝の日差しがあたっていた。
弥子は手をのばしてネウロのほほに指で触れた。冷たくて滑らかな肌だ。ネウロはわずかに目を細めた。普段は冷たいまなざしが一瞬だけやわらかく緩む、その変化が弥子の胸をするどく突いた。突き動かされる。身をかがめて唇に触れた。ネウロの唇は冷たく、いつでも乾いている。舌を這わせるとネウロは眩しげに目を細めた。長いまつ毛が弥子の鼻先を掠めて離れる。
好きだとか、嫌いだとか、愛だとか、種族が違うとか。
そんなことは一切関係なかった。悩んだこともあったけれどもう如何でもいい。いとおしくて弥子はネウロの肩を抱きしめた。ネウロは抵抗しないが自分から手を回すことはない。弥子との間にある距離を、測りかねている態度だった。
しかし弥子はそれでよかった。ネウロが自分に触れてくれなくても構わなかった。好きだと思う。離れたくない。それが全てだった。恋と呼ぶにはあまりに一途な感情なので自分でも恐ろしくなる。ネウロの胸に耳を付けて横たわるとかすかな鼓動が聞こえた。魔人の身体からは筋肉の動く音やわずかな血流音が聞こえる。まるで人間のように。
「ヤコ」
ネウロはまた弥子を呼び、口元にあった弥子の耳を甘噛みした。その心地よさに、泣きたくなる。弥子は強くまぶたを閉じた。
「ずっと、一緒に居て」
声はかすれた。ネウロは弥子の耳朶を舌先で舐めてわずかにほほ笑む。朝日をあびた頤に深く伸びるしわが見える――息が止まりそうなほど、せつない表情だった。
「貴様が望むなら」
ネウロが言った。
「吾輩は一生、貴様を離したりはしない」
子供かと思うほど、一途で真摯な響きをしていた。
おわり。
弥子は手をのばしてネウロのほほに指で触れた。冷たくて滑らかな肌だ。ネウロはわずかに目を細めた。普段は冷たいまなざしが一瞬だけやわらかく緩む、その変化が弥子の胸をするどく突いた。突き動かされる。身をかがめて唇に触れた。ネウロの唇は冷たく、いつでも乾いている。舌を這わせるとネウロは眩しげに目を細めた。長いまつ毛が弥子の鼻先を掠めて離れる。
好きだとか、嫌いだとか、愛だとか、種族が違うとか。
そんなことは一切関係なかった。悩んだこともあったけれどもう如何でもいい。いとおしくて弥子はネウロの肩を抱きしめた。ネウロは抵抗しないが自分から手を回すことはない。弥子との間にある距離を、測りかねている態度だった。
しかし弥子はそれでよかった。ネウロが自分に触れてくれなくても構わなかった。好きだと思う。離れたくない。それが全てだった。恋と呼ぶにはあまりに一途な感情なので自分でも恐ろしくなる。ネウロの胸に耳を付けて横たわるとかすかな鼓動が聞こえた。魔人の身体からは筋肉の動く音やわずかな血流音が聞こえる。まるで人間のように。
「ヤコ」
ネウロはまた弥子を呼び、口元にあった弥子の耳を甘噛みした。その心地よさに、泣きたくなる。弥子は強くまぶたを閉じた。
「ずっと、一緒に居て」
声はかすれた。ネウロは弥子の耳朶を舌先で舐めてわずかにほほ笑む。朝日をあびた頤に深く伸びるしわが見える――息が止まりそうなほど、せつない表情だった。
「貴様が望むなら」
ネウロが言った。
「吾輩は一生、貴様を離したりはしない」
子供かと思うほど、一途で真摯な響きをしていた。
おわり。
好きなんかじゃないから、と囁く声は壊れたレコードのように繰り返されて夜の空気に昇っていく。言葉の行く先を眺めた視界には天井から吊り下げられた蛍光灯だけが白く光っていた。時折またたき、一瞬消える。意味もなくその一瞬の暗闇を見つめてから、目線を下げた。
ソファに横たわった自分の体のうえに、寝そべるように細い体が寄りかかっている。痩せた体なので特に重さは感じない。腹筋の上に付けられた肘も、重いというよりは骨があたってくすぐったい。
弥子は決してネウロを見ようとはしなかった。しかし離れることもせずにただネウロの胸にほほをあてて遠くを見ている。
白んだ灯りに照らされた伽羅色の髪に触れようとして、やめた。正直な話、弥子に触れるのは億劫だった。少しでも力を込めれば壊れてしまいそうで、またはそんな莫迦なことを考えてしまう自分が不快で、結局伸ばしかけた手を引っ込めて自分の髪をかきあげた。
人間というのは面倒だ。脆く、果敢無く、すぐに壊れる。
下界で暮らしてからそれほどの時間は経っていなかったがネウロが人間に対して抱く感想はそれほど変わらない。面倒だから関わりたくはない、だが謎を食うためには人間に接触しなければならない――面倒なことだと、心底思う。
「好きなんかじゃないから」
また弥子が言葉を漏らした。何度も繰り返されるその言葉は既に聞き飽きていたが特に黙らせようとも思わない。弥子にどう思われていようがネウロには露ほどの関心もないし、第一ほほを寄せられたまま告げられるその言葉は嘲笑するほどのお為ごかしだ。
「好きなんかじゃないから」
呟くたびに、ぴったりと付けられた弥子のほほが微かに震える。表情は見えなかったが言葉は驚くほど無表情で、しかし震えるほほが何か別のことを伝えているようにも、ネウロには思えた。
人間は面倒だ。ネウロは思う。
脆く、果敢無く、すぐに壊れる――そのくせ、目には見えない強固な鎖でこちらを雁字搦めにしてくる。ゆび一本で潰せそうな、華奢な肢体を見下ろしてネウロは僅かに笑う。正直、弥子の呟きを聞くのはひどく心地よいことだった。
おわり。
ソファに横たわった自分の体のうえに、寝そべるように細い体が寄りかかっている。痩せた体なので特に重さは感じない。腹筋の上に付けられた肘も、重いというよりは骨があたってくすぐったい。
弥子は決してネウロを見ようとはしなかった。しかし離れることもせずにただネウロの胸にほほをあてて遠くを見ている。
白んだ灯りに照らされた伽羅色の髪に触れようとして、やめた。正直な話、弥子に触れるのは億劫だった。少しでも力を込めれば壊れてしまいそうで、またはそんな莫迦なことを考えてしまう自分が不快で、結局伸ばしかけた手を引っ込めて自分の髪をかきあげた。
人間というのは面倒だ。脆く、果敢無く、すぐに壊れる。
下界で暮らしてからそれほどの時間は経っていなかったがネウロが人間に対して抱く感想はそれほど変わらない。面倒だから関わりたくはない、だが謎を食うためには人間に接触しなければならない――面倒なことだと、心底思う。
「好きなんかじゃないから」
また弥子が言葉を漏らした。何度も繰り返されるその言葉は既に聞き飽きていたが特に黙らせようとも思わない。弥子にどう思われていようがネウロには露ほどの関心もないし、第一ほほを寄せられたまま告げられるその言葉は嘲笑するほどのお為ごかしだ。
「好きなんかじゃないから」
呟くたびに、ぴったりと付けられた弥子のほほが微かに震える。表情は見えなかったが言葉は驚くほど無表情で、しかし震えるほほが何か別のことを伝えているようにも、ネウロには思えた。
人間は面倒だ。ネウロは思う。
脆く、果敢無く、すぐに壊れる――そのくせ、目には見えない強固な鎖でこちらを雁字搦めにしてくる。ゆび一本で潰せそうな、華奢な肢体を見下ろしてネウロは僅かに笑う。正直、弥子の呟きを聞くのはひどく心地よいことだった。
おわり。
人間の住む街には様々なごみが落ちているものだが生きている人間を拾ったのは初めてだ。拾ったのはまだ五歳ほどの少女で、名前を尋ねたネウロに「やこ」とたどたどしい言葉遣いで応えてきた。
「ヤコ、か」
ネウロは道端の電柱に寄り添うように座り込んだヤコの髪をゆびで梳いた。垢と脂で髪はべっとりと絡み付いてくるが、街灯の白色光をあびて香色にきらめく髪は洗ってやれば人並みにはなりそうだ。鼻水の垂れた鼻をすすって、ヤコは上目遣いにネウロを見上げた。
「おなか、すいた」
やけにやわらかそうなてのひらが腹部を覆い、同時にぐうとかえるの鳴き声めいた腹の音が聞こえてくる。ネウロは着ているコートのポケットを探った。
ネウロ自身は人の食べ物を食さないが、今日は依頼人から菓子折りとやらをもらっていた。そのうちの殆どは吾代にくれてやったが、チョコレートが一粒残っていたはずだ。
小さなチョコレートは布地の隙間に隠れるようにしてあった。取り出すとヤコのひとみが爛々とかがやき、ぷよぷよした手のひらがコートの裾を掴んでくる。
「待て」
今にもチョコレートに飛びつきそうなヤコを手で制して命じる。ヤコは素直に頷いて、けれど目線だけはネウロの手にあるチョコレートを見つめていた。一秒、二秒、三秒。ヤコの口から涎が垂れかけるその直前に、ネウロはヤコを解放してやることにした。鼻先に突きつけていた手を離し、代わりにチョコを口元に運ぶ。
「よし」
まるで、犬か猫にでも命令するような。
けれどヤコは歯を見せてにんまりと笑うとネウロの手に飛びついた。チョコレートの銀紙を外してぺろりと舐める。赤い舌がチョコレイトの色に染まっていく様子は、不思議とネウロを落ち着かない気分にさせた。
「美味いか?」
尋ねると、ヤコはチョコの付いた唇をきゅっと引いて「おいしい」と応えた。鼻にもチョコが付いている。ネウロは微かに笑い、ヤコの鼻をゆびさきで擦った。
ネウロには体温というものがない。冷たい肌に驚いたのか、ヤコのひとみが一瞬まるまり虹彩の色が薄らいだ。
「付いていたぞ、粗忽ものめ」
ネウロはヤコをねめつけてから、自分のゆびさきに付いたチョコを舌先で舐めた。ヤコはチョコレイトを摘んだまま、ぼんやりとそんなネウロを様子を眺めていた。
どこか遠くでクリスマスソングが流れていた。道を行く人々はみんな家路を急いでいて、みなしごとしゃがみこんだ青年などを気にかける者は居ない。
ヤコはしばらくネウロを見つめていたけれど、やがて首をかしげて「あなたは天使さま?」と尋ねてきた。よりにもよって天使とは。ネウロは思わず鼻で笑った。
「何故そう思う?」
「おかあさんが、天使さまが迎えに来てくれるから待ってなさいって言ってたの。だからあなたは天使さまでしょう? わたしを迎えに来てくれた、」
「残念だが」
ネウロは立ち上がった。コートに付いてしまった埃を払い、ポケットに手を突っ込む。
「我輩は天使などではない。だから、貴様を迎えに来たわけでもない」
「……そう」
ヤコが俯く。遠い場所でのクリスマス・ソング。ネウロは牙を見せて笑った。
「だが、」
ポケットに入れていた手を取り出し、ヤコへと伸ばした。抱き上げた体は軽かった。ヤコが目を見開いてネウロを見つめる。ネウロはヤコを肩口に乗せた。まるで戯れの童話で読んだ、かのクリスマスの男のように。
「我輩は貴様をさらいに来たのだ。さあ、行くぞ」
ヤコは抵抗しなかった。ネウロの背中に逆さまのまましがみついて、濡れた囁きで「うれしい」とだけ呟いた。
おわり。
「ヤコ、か」
ネウロは道端の電柱に寄り添うように座り込んだヤコの髪をゆびで梳いた。垢と脂で髪はべっとりと絡み付いてくるが、街灯の白色光をあびて香色にきらめく髪は洗ってやれば人並みにはなりそうだ。鼻水の垂れた鼻をすすって、ヤコは上目遣いにネウロを見上げた。
「おなか、すいた」
やけにやわらかそうなてのひらが腹部を覆い、同時にぐうとかえるの鳴き声めいた腹の音が聞こえてくる。ネウロは着ているコートのポケットを探った。
ネウロ自身は人の食べ物を食さないが、今日は依頼人から菓子折りとやらをもらっていた。そのうちの殆どは吾代にくれてやったが、チョコレートが一粒残っていたはずだ。
小さなチョコレートは布地の隙間に隠れるようにしてあった。取り出すとヤコのひとみが爛々とかがやき、ぷよぷよした手のひらがコートの裾を掴んでくる。
「待て」
今にもチョコレートに飛びつきそうなヤコを手で制して命じる。ヤコは素直に頷いて、けれど目線だけはネウロの手にあるチョコレートを見つめていた。一秒、二秒、三秒。ヤコの口から涎が垂れかけるその直前に、ネウロはヤコを解放してやることにした。鼻先に突きつけていた手を離し、代わりにチョコを口元に運ぶ。
「よし」
まるで、犬か猫にでも命令するような。
けれどヤコは歯を見せてにんまりと笑うとネウロの手に飛びついた。チョコレートの銀紙を外してぺろりと舐める。赤い舌がチョコレイトの色に染まっていく様子は、不思議とネウロを落ち着かない気分にさせた。
「美味いか?」
尋ねると、ヤコはチョコの付いた唇をきゅっと引いて「おいしい」と応えた。鼻にもチョコが付いている。ネウロは微かに笑い、ヤコの鼻をゆびさきで擦った。
ネウロには体温というものがない。冷たい肌に驚いたのか、ヤコのひとみが一瞬まるまり虹彩の色が薄らいだ。
「付いていたぞ、粗忽ものめ」
ネウロはヤコをねめつけてから、自分のゆびさきに付いたチョコを舌先で舐めた。ヤコはチョコレイトを摘んだまま、ぼんやりとそんなネウロを様子を眺めていた。
どこか遠くでクリスマスソングが流れていた。道を行く人々はみんな家路を急いでいて、みなしごとしゃがみこんだ青年などを気にかける者は居ない。
ヤコはしばらくネウロを見つめていたけれど、やがて首をかしげて「あなたは天使さま?」と尋ねてきた。よりにもよって天使とは。ネウロは思わず鼻で笑った。
「何故そう思う?」
「おかあさんが、天使さまが迎えに来てくれるから待ってなさいって言ってたの。だからあなたは天使さまでしょう? わたしを迎えに来てくれた、」
「残念だが」
ネウロは立ち上がった。コートに付いてしまった埃を払い、ポケットに手を突っ込む。
「我輩は天使などではない。だから、貴様を迎えに来たわけでもない」
「……そう」
ヤコが俯く。遠い場所でのクリスマス・ソング。ネウロは牙を見せて笑った。
「だが、」
ポケットに入れていた手を取り出し、ヤコへと伸ばした。抱き上げた体は軽かった。ヤコが目を見開いてネウロを見つめる。ネウロはヤコを肩口に乗せた。まるで戯れの童話で読んだ、かのクリスマスの男のように。
「我輩は貴様をさらいに来たのだ。さあ、行くぞ」
ヤコは抵抗しなかった。ネウロの背中に逆さまのまましがみついて、濡れた囁きで「うれしい」とだけ呟いた。
おわり。